1780年代~1800年代:ヘロド/Herodによる創業と王朝の成立
王朝の創始者ヘロドは、元の名をキングヘロド/King Herodといった。まるで、最初から王になることが約束されたような名前だが、1758年に生まれた時点ではまだ、この系統は弱小にすぎなかった。ヘロドが生まれ、競走馬としてレースに出ていた時代は、ほかの三大始祖のライバル、ゴドルフィンアラビアン/Godolphin Arabianとダーレーアラビアン/Darley Arabianの子孫たちが権勢を奮っていたからだ。
しかし、競走馬としてまずまずの成功を収めたヘロドが種牡馬になると、状況は一変する。後にヘロド系を世界に広める3頭の息子たちのうちフロリゼル/Florizelが早々とデビュー。数年後にはウッドペッカー/Woodpecker、ハイフライヤー/Highflyerが誕生し将来の布陣が盤石になると、1777年からこの系統による英愛(イギリス・アイルランド)リーディングサイアー(首位種牡馬)の連覇が始まった。リーディングサイアーとは、その年に産駒の競走成績が最良だった種牡馬が戴く栄誉のことである。
まず、1777年から1784年までのリーディングサイアーをヘロドが8連覇すると、1785年以降はハイフライヤーが12年連続で王座を独占する。1797年のみ、他系統のキングファーガス/King Fergusがリーディングを取るが、絶対王者ハイフライヤーは翌年には自ら首位を奪還し、有終の美を飾った。1799年からはハイフライヤーの息子サーピーターティーズル/Sir Peter Teazleの時代が始まり、1809年までの11年間に10度リーディングサイアーとなって、ヘロド王朝の創成期を盛り立てた。
1810年代~1820年代:群雄割拠
1809年をもってサーピーターティーズルの連覇が止まると、英愛リーディング戦線は一挙に混迷する。ゴドルフィンアラビアンの血を引くマッチェム/Matchemの子孫と、ダーレーアラビアン/Darley Arabianの血を引くエクリプス/Eclipseの子孫からもそれぞれ競合が登場し、ヘロド王朝の支配を揺るがし始めた。ヘロド系からも、ウッドペッカーの血を引くセリム/Selimやルーベンス/Rubens、サーピーターティーズルの息子ウォルトン/Waltonらが出てこれに対抗するが、創業期ほどの支配は戻らなかった。
1830年代~1840年代:王の帰還と米国での躍進
この時代、ヘロド王朝はまたも新たな君主を迎えることになる。その名はサルタン/Sultan。イスラム世界の君主を名乗るこの馬は、競走馬としても名のある強豪に土を着けているが、種牡馬として英国クラシック戦線で活躍する子孫を数多く送り出した。種牡馬生活は極めて優秀で、1832年から1837年までの6年間、英愛リーディングの首位を独占している。また、米国でも、かつてかの地に渡ったフロリゼルの子孫が大いに成功し、サーチャールズ/Sir Charlesが5度の北米リーディングサイアーを制する活躍を見せた。
1840年代~1870年代:欧州での停滞と米国制覇
英愛ではサルタンの息子ベイミドルトン/Bay Middletonらが奮闘するが、エクリプス系から綺羅星のごとく登場する名馬たちによって次第に押し込まれていく。この40年間における英愛リーディングの支配は、ヘロド系7回、エクリプス系31回、マッチェム系2回となり、エクリプス系の優位が決定的になっていった。ただし、1860年代後半以降はハイフライヤー系の傑物バッカニア/Buccaneerが英愛およびドイツで5度のリーディングサイアーになるなど、凋落を食い止めようとする動きも見られた。
一方、米国では相変わらず好調で、フロリゼルの系統から出たボストン/Bostonと、スルタンの息子グレンコー/Glencoeらが快進撃を続けると、1860年にはついにボストンの息子レキシントン/Lexingtonによる米国制覇の時代が到来する。レキシントンは1860年から1874年まで14年連続、最終的には16回のリーディングサイアーを獲得し、ライバルを圧倒する成績でヘロド系の名声をこれ以上ないほど押し上げた。
1880年代~1930年代:王朝の落日
英愛ではエクリプス系の支配が確定した。ヘロド系はもはや完全に追い詰められ、かつての威勢が復活することはついになかった。ただし、1890年代から1900年代はエクリプス系の大種牡馬セントサイモン/St. Simonとその子孫が躍動した時代だが、最近の遺伝研究によればセントサイモンはヘロドの末裔だとする説もある。もしこの説が正しいとしたら、英愛におけるヘロド系は、セントサイモンの子孫にして凱旋門賞を連覇した無敗の名馬リボー/Ribotらが奮闘した1960年代まで王朝復興のチャンスが残されていた可能性がある。
フランスではウッドペッカー系のルサンシー/Le Sancy、ブリュール/Bruleurら、ドイツではハイフライヤー系のフィリバスター/Flibustier、シャマン/Chamant、キシュベル/Kisber、サフィール/Saphir、ハンニバル/Hannibalらが代わるがわる複数回のリーディングサイアーを獲得している。しかしドイツでは、結果的にこれが最後の輝きとなってしまい、1920年代以降はヘロド系が勢いを盛り返すことはなかった。
レキシントンが去った米国でもエクリプス系が強大になり、グレンコーの玄孫ハノーヴァー/Hanoverらが活躍した1890年代を除けば情勢は一挙に下り坂となり、1910年にハイフライヤーの子孫Kingstonがリーディングサイアーを取った後は失速した。なお、この時代、マッチェム系からも米国を代表する名馬マンノウォー/Man O’ Warが登場し、勢力を伸ばしていくため、ヘロド系はライバルたちに対抗する力を完全に失っていく。
1940年代:駆け抜けた旋風トウルビヨン/Tourbillon
英愛、ドイツ、米国では良き時代は去り、ヘロド王朝は過去のものとなっていた。フランスでも、1931年のクサール/Ksarを最後にヘロド系種牡馬が首位に立つことはなく、陥落は間近であった。だがしかし、この土壇場にきて規格外の名馬が登場し、人々はヘロド系の底力を再認識することになる。それがトウルビヨンである。
トウルビヨンは、1830年代にヘロド系の王座を取り戻したサルタンの末裔。繊維業界における成功でも著名な馬産家マルセル・ブサック氏の傑作である。トウルビヨンは、ジョッケクルブ賞をはじめとするフランス重賞4勝の実績を引っ提げて種牡馬入りすると、英仏の大レースを制する産駒を次々に送り出し、フランスで3度のリーディングサイアーになった。
しかし、トウルビヨンの真の偉業は、英国紳士をして悪名高き「ジャージー規則」を撤廃せしめたことである。トウルビヨンの活躍が始まる少し前の時代、英国人が雑種血統と見下していた米国産馬が欧州に流入し、欧州の大レースを侵略するようになっていた。これに不快感を募らせた英国人は、1913年に「雑種の血が混じった馬はサラブレッドとは認めない」とする一方的な規則を導入し、雑種血統どもの締め出しにかかった。トウルビヨンも、母ダーバン/Durbanの家系に雑種の米国産馬の血が混じっていたため、英国紳士たちの攻撃に遭い、子孫ともどもサラブレッドとして認定されないという辛酸を舐めさせられた。ところが、トウルビヨンら雑種の血を引く競走馬たちがあまりに強く、英国の大レースを制する状況が続いたことによって、英国もトウルビヨンらの血を取り入れて産駒のレベルアップを図らないわけにはいかなくなった。そして1949年、雑種とされたトウルビヨンらはついにジャージー規則を撤廃に追い込んだのである。
その後のヘロド系
あれほどの成功を収めたトウルビヨンだったが、直系子孫は先細りしていった。フランスでは、玄孫のリュティエ/Luthierが種牡馬として成功。1980年代まで輝きを放っていたが、エクリプス系の勢いに飲み込まれていく。北米では、1961年に「ガリア人の王」の名を持つアンビオリクス/Ambiorixが首位種牡馬となった後は、エクリプス系に対抗できる勇者は現れなかった。
豪州と日本におけるヘロド系の衰勢は、まるで合わせ鏡のようだった。1970年代、豪州ではトウルビヨンの末裔ベターボーイ/Better Boyが、わが国ではパーソロン/ Partholonが躍動し、それぞれが名馬を輩出していた。しかし、1980年代に入ると、豪州ではサートリストラム/Sir Tristram、わが国ではノーザンテースト/Northern Tasteが猛威を振るい出し、1990年代以降は、豪州ではデインヒル/Danehill系の、わが国ではサンデーサイレンス/Sunday Silence系の支配が完成していく。2020年代、わが国に残るヘロドの末裔は、トウカイテイオー/Tokai Teio産駒のクワイトファイン/Quite Fine、メジロマックイーン/Mejiro McQueenの後継馬ギンザグリングラス/Ginza Green Grassの2頭のみとなり、消滅寸前である。
結局、最後に残るヘロド系は、トウルビヨンからアホヌーラ/Ahonoora、インディアンリッジ/Indian Ridgeを経由した系統のみとなり、名のある種牡馬は英国にいるパールシークレット/Pearl Secretほか数頭という情勢となっている。