生涯
競走成績
ロレンザッチオは、名馬の父より生まれ、当時の欧州最強馬を真っ向から打ち破り、種牡馬としてはヘロド系の命脈を繋ぐ名種牡馬を輩出した点で、華やかな一生を送ったように見えるかも知れない。しかし、その生涯は決して平坦ではなく、苦難の連続だった。
ロレンザッチオは、父クレイロン/Klairon、母フェニッサ/Phoenissaより1965年に英国で生まれた。クレイロンは、現役時代にはジャック・ル・マロワ賞やプール・デッセ・デ・プーラン(仏2000ギニー)などの格式あるマイル重賞を制覇し、種牡馬としても英オークス馬モナド/Monade、プール・デッセ・デ・プーリッシュ(仏1000ギニー)優勝馬アルティシマ/Altissimaら名牝を輩出する活躍を見せていた [1]。
クレイロンとフェニッサを交配した当初、獣医は母体の中に命の痕跡を確認できなかった。仕方なく種付けをやり直すことになったが、念のため数日様子を見ることにした。この猶予が結果的に吉と出て、フェニッサの受胎が確認されたため、胎児の小さな命はすんでのところで助かった。後に、雄大な馬体に燃えるような栗毛をなびかせ、激しい気性で猛者たちと激闘を繰り広げるロレンザッチオは、こうしてギリギリの戦いに勝って生まれてきたのだった [2]。
2歳になったロレンザッチオは、1967年7月にニューマーケット競馬場でデビュー戦を迎えた。このレースは軽く2馬身差で制したが、その後の4戦は掲示板に顔を出すものの力負けの展開が続いた。3歳シーズンも初戦を落とすと、本番の英2000ギニーでも、サーアイヴァー/Sir Ivorやペティンゴ/Petingoら強豪にはまったく歯が立たずに敗退。現在のフランス3歳短距離馬の最強決定戦ジャンプラ賞(当時はシャンティイ競馬場で開催。距離は1,800メートル)には勝利するが、その後が続かず、3歳シーズンは5戦1勝、4歳シーズンは6戦未勝利と不本意な成績に終わった。
しかし、ロレンザッチオの5歳シーズンは、これまでのうっ憤を晴らす素晴らしいものになった。当時、英国リーディングジョッキーを6連覇中の名手レスター・ピゴットと組んだプリンスシュヴァリエ賞を4馬身差で勝つと、マイル戦のフイユーズ賞も6馬身差で勝ち、初めての連勝を記録した。その後の2レースはもたついたものの、再びピゴット騎手に乗り替わったマイル戦のクインシー賞で復活星を挙げると、これまでで最長となる11ハロン(約2,200メートル)のフォア賞を2:15.6のコースレコードで制した [2]。この勝利でロレンザッチオは今一つパッとしなかった戦歴を塗り替え、一流馬たちと渡り合う地位に上ってきた。
ロレンザッチオの生涯最大の挑戦は、1970年10月17日のニューマーケット競馬場で行われたチャンピオンステークスだった。この一戦には、英国三冠を無敗で制した後、凱旋門賞で不覚を取ったニジンスキー/Nijinskyが汚名返上を懸けて参戦しており、さらにその鞍上は過去2レースでロレンザッチオを勝利に導いたピゴット騎手だった。
この強敵を前にしても、5歳にして覚醒したロレンザッチオは怯まなかった。英国伝統の10ハロン(約2,000メートル)の直線コースの終盤、頭一つ抜け出すと、好位から強襲してくるニジンスキーの追撃を最後まで振り切った。敗者となったピゴット騎手は、悔しさのあまり「観衆がニジンスキーのレースを台無しにした」と嘆いた。ニジンスキーは、ひどい喧噪のため神経質になり、集中力を欠いていたという [3]。あるいは、ニジンスキー陣営が凱旋門賞の雪辱を急ぐあまり、中1週でチャンピオンステークスに参戦させたことも、この馬の不利に働いたのかも知れない。
いずれにせよ、金星を挙げたロレンザッチオは、現役最後のレースとして米国のワシントンDCインターナショナルに出走した。むろんこのレースでは、王者ニジンスキーを破った強豪として米国に警戒されることになるが [4]、結果はフォートマーシー/Fort Marcyに大差で負けて5着に終わった。
種牡馬として
米国のレースを最後に引退したロレンザッチオは、英国のアストンアップソープスタッドで種牡馬になった。現役時代の激しい気性は健在で、カメラマンがカタログに掲載する写真を撮ろうとしても暴れまわり、顔のアップしか映すことができなかった [2]。
種牡馬となったロレンザッチオは、当初は期待したほどの産駒に恵まれず、12歳の時に失敗の烙印を押されながら豪州に追放された [5]。ところが、欧州に残したドンロレンツォ/Don Lorenzoがナイアガラハンデキャップ(加G2)を勝って重賞勝ちを収めると、マイクレイルベリー/My Klaire Berryとアホヌーラ/Ahonooraもこれに続いた。特にアホヌーラは、スプリントチャンピオンシップ(英G2)とキングジョージステークス(英G3)の短距離重賞を勝っただけでなく、英国クラシックホースを含む多数のG1馬、重賞ウィナーを輩出する名種牡馬となった。
ロレンザッチオ自身も、豪州では気落ちすることなく種牡馬生活を続けた。そのうち、ブルワリーボーイ/Brewery Boyが南豪ダービー(豪G1)、ヴィクトリアダービー(豪G1)を制し、ドンレモン/Don Remonが西豪サイアーズプロデュースステークス(豪G2)を勝つなど、活躍馬が出るようになった。結局、ロレンザッチオは欧州に戻ることなく、21歳で死去した。
ロレンザッチオはヘロド系を拡大するには至らなかったが、名馬クレイロンの血をアホヌーラへと継承させる役目を果たした。そしてアホヌーラは、素晴らしい繁殖能力で優秀な子孫を送り出し、先細りしつつあったヘロドの系譜を力強く支えていくことになる。
系譜(ウッドペッカー-トウルビヨン系)
ロレンザッチオ 1965年(英) 24戦7勝:チャンピオンステークス |
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参考文献
[1] Star of Seville: Une famille éparpillée aux quatre coins du monde, façon puzzle, France sire, June 22, 2015.
[2] K. M. Haralambos, “Lorenzaccio” In The Byerley Turk: three centuries of the tail mail racing lines, Threshold Books, 1990.
[3] J. Brown, Nijinsky defeated by a 100-7 shot, The New York Times, October 18, 1970.
[4] Lorenzaccio is added to Laurel International, The New York Times, October 25, 1970.
[5] T. Morris, Surprising Sires, Juddmonte, November 3, 2014.