生涯
こんな夢みたいな話があるだろうか? 1992年の夏、カナダ人の実業家シドニー・クレイグ氏の所有馬ドクターデヴィアスが、英国ダービーのゴール板を先頭で駆け抜けた。その馬こそ、クレイグ氏の愛妻ジェニーが夫の60回目の誕生日に「ダービー馬」をプレゼントするために買い付けた馬だったのだ。
1989年に生まれたドクターデヴィアスは、ヘロド系末期の名種牡馬アホヌーラ/Ahonooraの晩年の産駒だった。現役時代は快速の短距離馬として鳴らしたアホヌーラは、英愛の短距離G1を2勝した牝馬パークアピール/Park Appeal、愛チャンピオンステークス(愛G1)勝ち馬のパークエクスプレス/Park Express、ライトタック/Right Tack以来18年ぶりに英愛両国の2000ギニーを制したドントフォーゲットミー/Don’t Forget Meらを輩出し、種牡馬としての名声を高めていた。しかし、アホヌーラの産駒はあくまでも短距離~マイルが主戦場であり、この種牡馬からダービー馬が出るとは信じられなかった [1]。
ドクターデヴィアスは、最初の馬主ロバート・サングスター氏の元、英国で始動した。1991年の2歳シーズンは短距離重賞のデューハーストステークス(英G1)とヴィンテージステークス(英G3)を含む6戦4勝2着2回。連対率100%の奮闘ぶりで、この世代を代表する一頭となった。
ドクターデヴィアスが3歳のシーズンを迎えた頃、ある裕福な婦人が欧米の有望な3歳馬を物色していた。夫人の名はジェニー・クレイグ。愛する夫シドニーの60歳の誕生日に華を添えるため、米国における3歳馬の最高峰、ケンタッキーダービー(米G1)に勝てる馬を探していたのだ [2]。クレイグ夫人に相談されたロナルド・マクナリー調教師は、ダービーシーズンの直前に有望馬を買いに向かうのは金がかかりすぎると翻意を促したが、クレイグ夫人は折れなかった。マクナリー師は、米国やフランスで有望馬を探したが見つけられず、諦めかけたところでドクターデヴィアスが英国で売りに出されたことを掴んだ。ドクターデヴィアスは既にデューハーストステークスを制しており、クレイグ夫人のお眼鏡に適う3歳馬だった。その日までクレイグ夫妻は35万ドル以上の競走馬を購入した経験はなかったが、夫人はこの馬に250万ドルもの大金を投じた [3]。かくしてドクターデヴィアスは夫人の愛する夫シドニー・クレイグ氏の所有馬となった。
ドクターデヴィアスは、英国の2歳シーズンで大活躍したとはいえ、大西洋を渡ってケンタッキーダービーに参戦する有力馬の中では2番手以降の序列だった [4]。最有力とみなされていたのはアラジ/Araziで、フランスの2歳馬最強決定戦グランクリテリウム(仏G1)と、同じく米国の2歳馬最強決定戦ブリーダーズカップ・ジュヴェナイル(米G1)を含むG1レース4勝の実績を引っ提げ、ドクターデヴィアスらを引き連れて意気揚々とルイビル(ケンタッキーダービーの開催地)に降り立った。ケンタッキーダービーでは、1番人気のアラジがまさかの大敗を喫し、6番人気のリルイーティー/Lil E.Teeが勝利する波乱の展開の中、初めての海外遠征に加え、未経験のダートコースに苦戦したドクターデヴィアスは7番人気の7着に敗れた。
ところが、クレイグ氏への誕生日プレゼントは遅れてやってくることになる。ルイビルでの惨敗を見たマクナリー師は、ドクターデヴィアスは芝コースで走る馬であり、英国に戻すべきだとクレイグ夫妻に助言した [5]。その言葉に突き動かされた二人は、ドクターデヴィアスを英国ダービーに参戦させることにした。
再び大西洋を渡ったドクターデヴィアスの状態は悪くなかった。ピーター・チャップルハイアム調教師はドクターデヴィアスに休息を与え、英国ダービーに向けて英気を養わせた [6]。迎えた本番、ドクターデヴィアスは18頭立ての2番人気に推された。ドクターデヴィアスの経歴は英国にも知れ渡っており、この馬が姿を見せた時には「さあ、バースデープレゼントがやって来ました」とはやし立てられたという [3]。
4枠のドクターデヴィアスはスタート良く飛び出すと、早くも先頭集団につけた。しかし、同馬騎乗のジョン・リード騎手は、はやるドクターデヴィアスを落ち着かせ、先頭集団を窺う5~6番手の好位置で追走した。18頭の優駿は中盤までひと固まりで進んだが、最終コーナーを前に一斉に加速し始めた。好位置に控えたドクターデヴィアスは外に持ち出して3番手に進出すると、直線で一気に抜け出した。クレイグ夫妻は喉を嗄らして声援を送り、実況も興奮気味に叫んだ。「ジェニーはケンタッキーダービーを勝つためにこの馬を買いました。しかし今、ドクターデヴィアスは本物のダービーに勝とうとしています!」[3]
そしてドクターデヴィアスは、英国人が唯一無二の「ダービー」と信じる英国ダービーを見事に制した。シドニー・クレイグ氏は、100万ドルの優勝賞金とともに、これ以上ない最高の栄誉を受け取ったのである。
その後のドクターデヴィアスは、愛チャンピオンステークス(愛G1)の勲章を加えたが、凱旋門賞(仏G1)、ブリーダーズカップ・ターフ(米G1)、ジャパンカップ(G1)では精彩を欠き、3歳シーズン限りで引退した。引退後は600万ドルでわが国に輸出され、社台スタリオンステーションで種牡馬生活を送ることになった。クレイグ夫人はかつてドクターデヴィアスを250万ドルで購入したが、この馬は最後まで夫妻に富をもたらしたのである。
知られている通り、ドクターデヴィアスはわが国においてファンタジーステークス(G3)を制したロンドンブリッジ/London Bridgeほか数頭の重賞ウィナーを送り出した。数年後には英国に売却されるが、産駒のコリアーヒル/Collier Hillが世界中を渡り歩いて愛国、カナダ、香港のG1を制したほか、キンナード/Kinnairdがオペラ賞(仏G1)に勝つなど多数の重賞ウィナーを輩出した。残念ながら自身の跡を継いでヘロドの系譜を広げていく産駒には恵まれなかったが、名種牡馬アホヌーラの直仔の名に恥じぬ活躍ぶりだった。
系譜(ウッドペッカー-トウルビヨン系)
ドクターデヴィアス 1989年(愛) 15戦6勝:英国ダービー(英G1) |
|
---|---|
link | link |
ⓒ 2021 The Eternal Herod |
参考文献
[1] T. Morris, Surprising Sires, Juddmonte, November 3, 2014.
[2] R. Peddicord, A ‘Devious,’ expensive present Happy Birthday, for $2.5 million Kentucky Derby notes, The Baltimore Sun, April 27, 1992.
[3] J. Craig, The Jenny Craig Story: How One Woman Changes Millions of Lives, Willey, 2004.
[4] B. Christine, Mission Is Plane for Arazi: Kentucky Derby: Colt arrives in Louisville along with Dr Devious and Thyer. Quarantine is expected to end Tuesday, Los Angeles Times, April 27, 1992.
[5] Sidney H. Craig, Won Epsom Derby, Dead, BloodHorse, July 22, 2008.
[6] J. Linden, Dr. Devious wins Epsom Derby, UPI Archives, June 3, 1992.