その血は魔術師とともに眠らん:デーモンウォーロック/Demon Warlock

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古の血統:チョーサー-ボワルセル系

もし遥か昔の祖先から続いてきたサラブレッドの直系子孫が滅びる瞬間に立ち会ったら、どんな気持ちになるだろうか。21世紀の現代に生きる私たちにその機会を与える最初の一頭は、デーモンウォーロックをおいて他にあるまい。

デーモンウォーロックは、19世紀末に現れた歴史的名種牡馬セントサイモン/St. Simonの子孫のうち1900年に誕生したチョーサー/Chaucerを祖とし、1935年に登場した英国ダービー馬ボワルセル/Bois Rousselの系統に属する末裔である。ところが、チョーサーの子孫はボワルセル直系を除いてすべて滅び、そのボワルセル系の継承者もデーモンウォーロックただ一頭にまで追い込まれている。デーモンウォーロックの誕生は2000年であるので、この馬はちょうど100年前の祖先の血を継ぐ者にして、この系統に幕を引く運命を担うことになってしまった。

この貴重な血が滅びる前に記事をまとめる機会を得られたのも何かの縁だろう。彼らが成し遂げた業績に比べれば簡単すぎるかも知れないが、チョーサーから伸びるこの系統の活躍を順に紹介させていただきたい。

チョーサー/Chaucer 1900年(英)35戦8勝

1900年に英国で生まれたチョーサーは、大種牡馬セントサイモンの後期の産駒である。現役時代は35戦8勝。種牡馬としても超一流とは言えなかったが、ブルードメアサイアー(母の父)としては大変有能で、チョーサーの娘たちがハイペリオン/Hyperion、フェアウエイ/Fair Way、ファロス/Pharos(ネアルコ/Nearcoの父)などの重要な名馬を次々に送り出した。チョーサーの直系は、種牡馬生活の中盤に輩出したプリンスチメイ/Prince Chimayが受け継ぐこととなる。

プリンスチメイ/Prince Chimay 1915年(英) ジョッキークラブステークス

この馬の詳しい戦績は不明だが、1918年のジョッキークラブステークスで、同期で同僚の英国クラシック三冠馬ゲインズバラ/Gainsboroughを破ったのがキャリアのハイライトである。その他には、ウィンザーステークスやシルバーリーハンデキャップなどに勝ち [1]、1918年のアスコットダービーでも優勝したという記録もあるので、最低4勝は挙げている。前述のジョッキークラブステークスでは、三冠制覇後のゲインズバラの状態が良くなかったとも指摘されているが、プリンスチメイにとっては大きな勝利だった [2]。

プリンスチメイは英国で種牡馬入りするも、すぐフランスに売却され、そこで後継者となるヴァトー/Vatoutを輩出した。しかし、ヴァトーを除けば成功した産駒はあまりいなかったようである。

ヴァトー/Vatout 1926年(仏) 29戦6勝、仏2000ギニー

プリンスチメイがフランスで残した息子ヴァトーは、1929年の仏2000ギニー(仏クラシック第一戦)の優勝馬である。大レースでの勝利はこれ一つだが、種牡馬としては1939年のフランスリーディングサイアー(首位種牡馬)に輝くなど(注:同年のリーディングサイアーはファロスだったという記録もある)かなりの成績を収めた。

初期の産駒ヴァテラー/Vatellor(1933年)は、1944年にパールダイヴァー/ Pearl Diver、1945年にマイラヴ/My Loveと2頭立て続けに英国ダービー馬を出すなど大活躍。1935年の産駒からは、ヴァトー最大の成功例となるボワルセルが登場する。また、その1年後輩のアトゥメトラー/Atout Maitre(1936年)もジョッキークラブカップ(現ブリティッシュ・チャンピオンズ・ロングディスタンスカップ)やゴールドヴェーズなどの長距離重賞を制し、この系統の底力を見せつけていた。

ボワルセル/Bois Roussel 1935年(仏) 3戦2勝、英国ダービー

チョーサー系の存続の要となったボワルセルは、1935年にフランスで生まれた。戦績はわずか3戦だが、祖国でデビュー勝ちを飾った後に渡英し、キャリア2戦目にして早くも英国ダービーを制する。この勝利は、若武者ボワルセルが英国の頂点を極めただけでなく、斜陽のセントサイモン系から四半世紀ぶりの英国ダービー馬が誕生した瞬間でもあった。この勝利で名馬への道を進み始めたボワルセルだったが、脚部不安のためパリ大賞典に敗れると、その後はターフに戻ることはなかった。

種牡馬としてのボワルセルは、現役時代のうっ憤を晴らすべく奮闘した。初年度産駒テヘラン/Tehran(1941年)がセントレジャーステークス(英国クラシック第三戦)を勝つと、最良の産駒ミゴリ/Migoli(1944年)は凱旋門賞を勝つなど活躍した。その後も英国、愛国のクラシックホースを立て続けに送り出した。ボワルセルの死後にはなるが、最晩年の産駒ヒカルメイジ/Hikaru Meiji(1954年)は1957年の日本ダービーを制しており、わが国の競馬界にも貢献している。テヘランやミゴリを始めとする後継者に恵まれたボワルセルは、チョーサー系のみならず衰退していたセントサイモン系の勢力を一気に盛り返し、この系統にとっての希望の星となった。

ミゴリ/Migoli 1944年(愛) 21戦10勝、凱旋門賞

父に英国ダービー馬ボワルセル、母の父に無敗の英国クラシック三冠馬バーラム/Bahram、母の母の父に英国クラシック三冠馬ゲインズバラ/Gainsborough、三代母に超速馬ムムタズマハル/Mumtaz Mahal(その父はヘロド系の異端児ザテトラーク/The Tetrarch)という豪華絢爛な血統背景を持つミゴリは、1944年、戦時下の愛国に生まれた。当初は勝ち上がりにもたつき、未勝利を脱するまでに5戦も費やすほど頼りなかったが、一つ勝ちだすと途端に実力をつけ、重賞戦線で主役を張るまでに成長する。父が制した英国ダービーは2着に敗れ取り逃がしたものの、エクリプスステークスやチャンピオンステークスなど格式高いレースを次々に制し、4歳シーズンでは凱旋門賞も制覇した。

種牡馬としてはそれほど奮わなかったものの、米国に渡ったギャラントマン/Gallant Man(1954年)が現地のレースを勝ちまくり、サイアーラインの伸長に成功している。当時、欧州で苦戦していたミゴリは、ギャラントマンの成功を受けて渡米したが、残念ながらここでも成績が上向かず、寂しく客死することとなった。

ギャラントマン/Gallant Man 1954年(愛) 26戦14勝、ベルモントステークス

この馬を境に、チョーサー直系の主戦場は米国に移る。ミゴリの息子ギャラントマンは、一説には米国外で生まれた競走馬としてもっとも成功した一頭とされ、見事殿堂入りを果たしている [3]。欧州のイヤーリングセールで売りに出されたギャラントマンは米国人のラルフ・ロウ氏の目に留まり、ロウ氏に連れられて米国でキャリアをスタートすることになった。

デビュー当初のギャラントマンは、父以上に不安定な惨敗を繰り返す有様だったが、6戦目を境にようやく波に乗ると、それまでの苦戦が嘘のように勝ち星を伸ばしていく。そして1957年5月、プリンスキロ系の名馬ラウンドテーブル/Round Table、現代の米国主流血統の一角を築く名馬ボールドルーラー/Bold Ruler、世代きっての強豪と名高いアイアンリージ/Iron Liegeらが集う一大決戦、ケンタッキーダービー(米国クラシック第一戦)に臨んだ。ゴール目前、先行するアイアンリージを捉えたギャラントマンだったが、鞍上のウィリアム・シューメーカー騎手がゴール板を見間違えるまさかの失態を犯し、手綱を緩めてしまう。ミスに気付いたシューメーカー騎手が再び追い出すも、ギャラントマンはハナ差及ばず栄冠を逃がした [4]。この敗戦に激怒したラルフ・ロウ氏は、米国クラシック最終戦のベルモントステークスに人馬を万全の態勢で送り出す。このレースでのギャラントマンはライバルを寄せ付けず、2着以下に8馬身差の圧勝劇を収めて雪辱を果たした。

その後も数々の栄冠を手にしたギャラントマンだったが、左脚の故障のため1958年に引退。ケンタッキー州のスペンドスリフトファームで種牡馬入りした。現役時代の好敵手ボールドルーラーやラウンドテーブルには及ばなかったが、それなりの成功を収め、最初期の産駒ギャラントロメオ/Gallant Romeoが後継者となっている。

ギャラントロメオ/ Gallant Romeo 1961年(米) ヴォスバーグステークス

この年代の馬で戦績が不詳とは容認しがたいが、無名だったためと解釈するほかない。ギャラントロメオは、1966年のヴォスバーグハンデキャップ(当時はグレード制未導入。現在は米G2)の勝ち馬であり [5]、他にもいくつかのハンデキャップ競走に勝っている。あまり知られていない産駒の中から米国クラシックウィナーのエロキューショニスト/Elocutionistが出て、どうにかサイアーラインを繋ぐことに成功した。

エロキューショニスト/Elocutionist 1973年(米) 12戦9勝、プリークネスステークス

エロキューショニストは、1973年に米国で生まれた。馬名は「雄弁家」という意味だが、「勇者」を意味する祖父ギャラントマン、あるいは母ストリクトリースピーキング/Strictly Speakingからの連想であろうか。デビュー当初から順調に勝ち進み、2歳シーズンは4戦4勝。無敗でホーソーンジュヴェナイルステークス(当時米G3、現在は廃止)を制している。1976年の3歳シーズンも好調を維持し、アーカンソーダービー(当時米G2、現在は米G1)を含め3連勝でクラシック戦線に臨む。第一戦のケンタッキーダービー(米G1)はボールドフォーブス/Bold Forbesの3着に敗れたものの、第二戦のプリークネスステークス(米G1)では見事に逆転し、栄冠を手にした [6]。ところが、右前脚に故障を発生し、第三戦のベルモントステークス(米G1)を回避。結局、故障から復帰できず、そのまま種牡馬入りした。

種牡馬としてのエロキューショニストは、初年度産駒のレシテイション/Recitation(1978年)がフランスの2歳馬最強決定戦グランクリテリウム(仏G1)を制し、仏2000ギニー(仏G1)も勝って早くもクラシックウィナーを送り出したことから期待されたが、最終的に21頭のステークスウィナーを輩出したものの、デーモンズビゴーン/Demons Begone(1984年)を除けば目立った活躍馬がでなかった [7]。レシテイションは米国、その後わが国で種牡馬になったものの失敗に終わり、この系統の行く末はデーモンズビゴーンに委ねられることとなった。

デーモンズビゴーン/Demons Begone 1984年(米)、14戦7勝、アーカンソーダービー

ミゴリ以降の世代に名種牡馬が出なかったため、チョーサー-ボワルセル系は米国で細々と生き延びるだけになりつつあった。その状況下で生まれたデーモンズビゴーンは、この系統最後の有力馬と呼んでいいだろう。

2歳シーズンは6戦3勝。アホイステークスを制し、シャンペンステークス(米G1)やフューチュリティステークス(米G1)でいずれも2着に入る健闘を見せた [7]。1987年の3歳シーズンに才能が開花。3歳初戦のサウスウェストステークスを8馬身差で勝つと、レベルステークス、父と同様にアーカンソーダービー(米G1)を制した勢いでケンタッキーダービー(米G1)に参戦した。ここでも勝利を期待されるも、レース中にひどく鼻血を出し、競走中止に追い込まれている。その後は燃え尽きてしまったのか、重賞競走ではレイザーバックハンデキャップ(米G2)で3着に入るのがやっとで、14戦7勝の成績で引退。1989年にケンタッキー州のクレイボーンファームで種牡馬生活を始め、後にワシントン州のエルドラドファームに移籍した [8]。

種牡馬としてのデーモンズビゴーンは、大成功ではなかったが、10頭以上のステークスウィナーを送り出した。その中には、1994年のラウンドテーブルステークスの勝ち馬ダンビル/Danville、1995年のホールオブフェイムステークス(米G2)とローレンスリアライゼーションハンデキャップ(当時米G3、現在は廃止)の勝ち馬フリッチ/Flitchなどがいるが、いずれもサイアーラインを継承することはできなかった。そのため、この系統の最後の綱は、重賞勝ちもないデーモンウォーロックが引くことになったのである。

デーモンウォーロック/Demon Warlock 2000年(米) 28戦10勝、エメラルドハンデキャップ

こうしてチョーサー-ボワルセルの系譜を振り返ったとき、ミゴリやギャラントマンら一流馬が自身を超える後継者を残せなかったことが衰退の運命を決定づけてしまったと言えるだろうか。この系統の最後の継承者デーモンウォーロックの生年は2000年だが、父デーモンズビゴーンは2001年に死去しているので、まさに断絶寸前にこの系譜を汲み取ったことが分かる。だが、その奮闘も今、終わろうとしている。

馬名のウォーロックは「魔術師」の意味だが、一時的にでも滅亡寸前の血統を救ったことを考えれば相応しい名前であるかも知れない。デーモンウォーロックは、4歳序盤まではカリフォルニア州で、以降はワシントン州を主戦場とした。デビュー当初からあまり期待されていなかったらしく、クレーミング競走に度々出生している。私たちには馴染みがないが、クレーミング競走とは出走馬が売りに出されているレースのことであり、一般的には所有馬の将来性に見切りをつけた馬主が売りに出していると解釈できる。そのため、デーモンウォーロックは何度か馬主が交代している可能性があるのだが、最終的にはティム・フロイドとアレン・フロイド親子およびマイク・ニスト氏が所有者となった。

このような背景を知れば、デーモンウォーロックはよほど奮闘したといえるだろう。4歳シーズンにリステッド競走のバドワイザーエメラルドハンデキャップに勝ち、ロングエーカーズマイルハンデキャップ(米G3)で2着に入り、2004年のワシントン州年度代表馬となった [9]。敗戦した重賞競走でも、ドロドロの不良馬場で優勝したアドリームイズボーン/Adreamisbornに追いすがり、1馬身差まで迫る接戦を演じた [10]。キャリア通算では2歳から5歳シーズンまで走り、毎年勝利を挙げ、28戦10勝の成績を収めている。

デーモンウォーロックは、2007年よりワシントン州のアレアファームで種牡馬になった。当初の種付料は1,000ドルと設定されたものの、意外に走る産駒を出すことが評価され、2011年にはロシュファームに移籍し、種付料も1,500ドルに引き上げられている。2014年~2016年頃にはアリゾナ州で活動していたが、近年はワシントン州のロシュファームに戻って来ている。初年度産駒でリステッド競走の勝ち馬ウィンターウォーロック/Winter Warlock(2008年)が長らく自身の代表産駒だったが、15勝(もしくは16勝)を挙げた牝馬のコピービゴーン/Copy Begone(2013年)、次いで2019年のワシントン州最優秀3歳牝馬のアリトルレストーク/Alittlelesstalk(2016年)などが現れ、種牡馬としてのキャリアの終盤でも活躍馬を出している [11]。ただし、今のところ牡馬には有力馬がおらず、跡を継げる者がいない点が惜しまれる。2020年の種付け数は4頭だったが、ここから奇跡的に後継者が現れることを期待するのみである。

思いのほか長くなったが、チョーサー-ボワルセル系が紡いだ希少な血筋の魅力をほんの少しでもお伝えできたであろうか。チョーサー以下の直系がこの系統しかないとすれば、デーモンウォーロックは父の代をセントサイモンまで10代、約120年遡ったところで、ようやく共通の父を持つ馬に出会うことができる。

系譜(ウッドペッカー-ガロピン-ボワルセル系)

以下にデーモンウォーロックの血統表を記載するが、近年になってセントサイモンはヘロド/Herodの子孫だったとの事実が明らかにされつつある。当サイトは、セントサイモンがヘロドの息子ウッドペッカー/Woodpeckerの系譜に属するとの立場で血統表を書いているため、その点にはご注意願いたい。

デーモンウォーロック 2000年(米)
28戦10勝 エメラルドハンデキャップ
デーモンズビゴーンエロキューショニスト
ラウディエンジェル
ウィッチェリーザンボーニ
アーリーナイトレイン
父系に関する注釈
ⓒ 2021 The Eternal Herod

参考文献

[1] https://www.tbheritage.com/Portraits/Chaucer.html
[2] Gainsborough Never Looked Better, Daily Racing Form, November 5, 1918.
[3] https://www.racingmuseum.org/hall-of-fame/horse/gallant-man-eng
[4] https://www.kentuckyderby.com/history/moments/iron-leige
[5] M. Strauss, Gallant Romeo 3-length victor in $57,700 sprint at Aqueduct, The New York Times, November 12, 1966.
[6] S. Cady, 10-1 Elocutionist is Preakness winner by 3½ lengths, The New York Times, May 16, 1976.
[7] BackTrack: Demons Begone wins 1987 Southwest stakes, Blood Horse, February 21, 2019.
[8] Washington stallion Demons Begone dead, Blood Horse, July 8, 2001.
[9] Demon Warlock top Washington-bred of 2004, Blood Horse, February 13, 2005.
[10] Adreamisborn Overcomes Slow Start to Win Longacres Mile, Blood Horse, August 23, 2004.

[11] Baja Sur named 2019 Washington horse of the year, Blood Horse, February 23, 2020.

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