<8>真相:ヘロドの魂の在処。セントサイモンが秘める血のロマン

2017年、セントサイモン/St. Simonがヘロド/Herodの子孫なのではないかという疑惑に触れたバーバラ・ウォルナー博士らの研究は、その後どうなったのだろうか? 衝撃の報告から2年、ウォルナー博士を含む25人もの研究チームが、Scientific Reports誌に新たな研究成果を発表した [1]。

この未踏の世界に飛び込む前に、これまでの研究成果を簡単に振り返ろう。遺伝学の進展により、現在入手可能な馬のサンプルから彼らの祖先を遡ることができるようになってきた。そして、ウォルナー博士らがこの手法を応用してサラブレッドのサイアーライン(父系)の再構築を試みたとき、事件が起こった。すなわち、ダーレーアラビアン/Darley Arabianの玄孫エクリプス/Eclipseの末裔は概ね同じ系統のY染色体ハプロタイプを持っていたが、ある一系統だけが明確に異なる遺伝子を持っていたことが発見されたのだ。その系統こそセントサイモンであり、その子孫が持つ遺伝子は、バイアリーターク/Byerley Turk-ヘロドらの子孫のそれと同じタイプのものだった [2]。

2017年の段階では、ウォルナー博士らは、セントサイモンの父系に「エラーが認められた」と述べるのみで、このエラーの原因を突き詰めたり、セントサイモンをヘロドの子孫だと断定したりすることはなかった。しかしながら、この魅力的な謎を見過ごせるはずもなく、その真贋に迫る調査の進展が望まれていた。

さて、今回の新たな研究では、ウォルナー博士らは、以前に比べ遥かに多くのデータを用い、サラブレッドをはじめ、アハルテケ、アラブ、ノリーカー、モーガンホース、フライバーガー、ハノーヴァー、スタンダードブレッド、リピッツァナー、アメリカンクォーターホースなど38品種の現代馬の遺伝子を解析し、そのルーツを探索した。ちなみに、現在の地球上に生きる馬の数は5,800万頭に上り、その品種は700にも及ぶのだから、遺伝学を武器に現代馬のルーツを辿る研究はまだ緒についたばかりと言える。しかし、先に挙げた品種はサラブレッドの発展と密接な関りを持つものも多く、ヘロドやセントサイモンの父系を辿る我々にはこれ以上ない手がかりを与えてくれる。

事実、博士らの研究はサラブレッド以外の品種が持つ遺伝的ルーツを明らかにする興味深いものであるが、本稿ではその大要には触れず、サラブレッドに関する研究成果を確認することに集中したい。なぜなら、私たちにとっての最大の関心事は、セントサイモンは本当にヘロドの子孫か?という大いなる謎に迫る答えなのだから。

…これ以上くどくどと述べることはやめよう。セントサイモンの父系に思いを馳せる方はぜひ、下図に示すウォルナー博士らの研究成果を一目見ていただきたい。

サラブレッドの父系の再構築結果
サラブレッドの父系の再構築結果(Felkelら, 2019を基に作成)

図の左側はバイアリーターク/Byerley Turk(1680年)からヘロド、その息子ウッドペッカー/Woodpecker(1773年)へと続くサイアーライン。右側はダーレーアラビアン/Darley Arabian(1700年)からエクリプス/Eclipse(1764年)を経由する、現代サラブレッド界の主流血統である。従来の血統表が教えるところでは、セントサイモンはエクリプスの息子キングファーガス/King Fergus(1775年)の7代目の子孫であり、もしそれが正しければ、エクリプスの他の子孫たちと同種の遺伝子を持つはずである。

だが、なんということだろう! セントサイモンの2頭の代表産駒、セントフラスキン/St. Frusquin(1893年)とパーシモン/Persimmon(1893年)の子孫は、明らかにエクリプスの子孫とは異なる遺伝子を持っている。そうであるならば、セントフラスキンとパーシモンの父セントサイモンもまた、エクリプスの子孫ではないという事実が確定してしまう。

なぜ、いつの時点でこんな事態が生じたのだろうか? ウォルナー博士らは、20世紀前半に発行された複数の文献に基づき、セントサイモンの父ガロピン/Galopin(1872年)の血統表に誤りがあった可能性を指摘している。すなわち、ガロピンはキングファーガスの末裔ヴィデット/Vedette(1854年)の息子とされてきたが、これが誤りであり、実際にはヘロド-ウッドペッカーの系譜に連なるディライト/Delight(1863年)の息子だという主張が昔からあったというのである。(※原著では、前記の主張はearly to mid 19th centuryに(19世紀の前半から中頃にかけて)起こったと記載されているが、ガロピンやセントサイモンの誕生は19世紀終盤なのでこれは誤りだろう。博士らがこの個所で引用している文献の発行年は1911年~1949年であるので、本稿はこれを正として記述している。)

それにしても、ディライト…、ディライトか。この馬の父はエリントン/Ellington(1853年)という名前で、1856年の英国ダービー馬である。エリントンは種牡馬としては失敗だったとされ、名のある産駒はあまり知られていない。もっとも、エリントンは良いとして、その父はなんと、ウッドペッカー系の名馬ザフライングダッチマン/The Flying Dutchman(1846年)である。ザフライングダッチマンは、同世代では卓抜した能力を持ち、1849年の英国ダービーやセントレジャーステークスを含む16戦15勝。わずかに一度2着に敗れたのみだが、この時に負けた相手がこれまでセントサイモンの曾祖父と考えられていたヴォルティジュール/Voltigeur(1847年)だった。

その敗戦はともかく、問題はガロピンの父が本当にディライトだった場合である。ガロピンの母はフライングダッチェス/Flying Duchessという牝馬だが、その名前から想像される通り、フライングダッチェスの父はザフライングダッチマンである。すると、どういうことになるだろうか? 以下にガロピンの3代血統表を書いてみたが、曾祖父と母の父がザフライングダッチマンだとすると、これは3×2という非常に強いインブリード(近親配合)になってしまう。

ガロピン 1872年(英) 真の血統表?
11戦10勝 英国ダービー
ディライトエリントンザフライングダッチマン
エラーデール
プラシドティストルウィッパー
パッション
フライングダッチェスザフライングダッチマンベイミドルトン
バーベル
メロープヴォルテール
ジュピターメア
父系に関する注釈
ⓒ 2021 The Eternal Herod

インブリードは、優れた馬の資質を子孫に伝えることを目的に、昔から頻繁に試みられてきた。上記の血統表を例に説明すれば、父方の三代前の祖先と母方の二代前の祖先に同じ馬(ザフライングダッチマン)がいる産駒(ガロピン)は、この祖先の3×2のクロスを持つ。この場合、産駒は名馬の祖先の身体能力や性質を色濃く受け継ぎ、大化けする可能性がある。しかし、強すぎるインブリードには当然弊害もあり、虚弱体質や気性難の仔馬が生まれやすくなる。過去の馬産家は、試行錯誤を繰り返しながらこの辺りの匙加減を学び、過度のインブリードは成功よりも失敗が多くなることを知っていた。上記の血統表に示された3×2は非常に強いインブリードであり、成功例もないわけではないが、かなりリスクの高い配合であることは間違いない。

ただし、念のために補足しておくと、ガロピンの父が結局ヴィデットであった場合でも、父方と母方の三代前の祖先がヴォルテールになり、3×3のクロスを持つ。これもまた強いインブリードであり、いずれが正しいにせよガロピンは冒険的な配合の結果生まれたことになるわけだ。もしガロピンがインブリードの弊害に苦しみ、失敗に終わっていたら、古の名馬セントサイモンもこの世に現れなかったかも知れない。

ガロピン 1872年(英) 従来の血統表
11戦10勝 英国ダービー
ヴィデットヴォルティジュールヴォルテール
マーサリン
ミセスリッジウェイバードキャッチャー
ナンダレル
フライングダッチェスザフライングダッチマンベイミドルトン
バーベル
メロープヴォルテール
ジュピターメア
父系に関する注釈
ⓒ 2021 The Eternal Herod

サラブレッドの生産において配合理論は極めて面白い分野ではあるが、本稿はここでまとめに入りたいと思う。以上に述べてきた通り、ウォルナー博士らの遺伝研究の結果、セントサイモンの祖先がヘロド系であることが決定的になってきた。当時の情報と突き合わせた結果、セントサイモンの祖父(ガロピンの父)に取り違えがあった可能性があり、それがヘロドの子孫ディライトだったのではないかというのが新説だ。

今や滅亡寸前のヘロド系の再興を願う私としては、これは間違いなく朗報である。しかしまた、何とも皮肉な物語だ。21世紀の今、セントサイモンの直系子孫もまた、ヘロド系と同じように滅亡の危機に瀕している。ゆっくりと滅亡するヘロドを再興する勢力が現れたかと思えば、その者たちもまた遠からず滅ぶ…というのだろうか。私には、滅びの運命に魅入られた血統が、どうしても抜け出せない蟻地獄にはまり込んでいるように思われてならない。ヘロドとセントサイモンの…、この儚さに包まれた血統に、救いはあるのだろうか。

参考文献
[1] S. Felkel et al., The horse Y chromosome as an informative marker for tracing sire lines, Sci. Rep., 2019, 9:6095, 1-12.
[2] B. Wallner et al., Y chromosome uncovers the recent oriental origin of modern stallions, Curr. Biol., 2017, 27, 2029-2035.

私たちがいる限り、ヘロド系は終わらない。
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